裏飯

アウトプット練習

ネロの兄

誰かの幸せが、誰かの不幸になるという表裏一体感は絶望に至る道。それか他人の不幸を積極的に喜べるメンタルであれば2度美味しくて嬉しい感じ?それはそれで地獄絵図だけども。
勝者と敗者みたいな直接的なやつではなくて、結婚した!子供産まれた!幸せ!→結婚できなくて子供できない人に謝れ!みたいなやつのはなしです。今もあるんだろうか。むかーしにそういうもめ事を、読んだなあ。

幸せを発信することを無条件に善とみなすのとに対する疑義、周囲に雰囲気を強制する傲慢さ、それらに気付かず、それらによって辛い気持ちになる人への想像力のなさへの批判、そういう人間への苛立ちはインターネットでは容易に受肉する。
他人だからかな。関係性の薄さが攻撃性を高める。リアルのソーシャルがブリンギンされてる今のインターネットなら抑止効果もありそうだけど、逆にグループになって歯止めが効かなくなってる感じもありそう。

絶対的な善も悪も難しすぎて、毎日をやっとこさ生きていく現状では、どこかで線引きをしていくしかないわけで、それは見えてる現実と、思考する能力やコストとの相談になってくるんじゃないだろうか。その線の引き方の違いを絶対的な悪とはやはり言えないわけで、言い始めたら最後、理論的には無限遠点まで、線を引いていくことになり、普通無理なので、あっちこっちに線を引くことになる。
ブロガーの持つ病であり罪の一つだ。バックの取り合いで、後ろ向きに地平の彼方に消えていく。そして誰もいなくなる。

なので炎上に対する最大の防御は何も書かないことだと思います。護身の完成形。

なんてことを、適用範囲も定めずにいちいちいろんなことに適用しようとしたり、全く適用しなかったりしている自分は、結局大事なことの線引きがが決められない未熟者なんだなあと思う。どこかで欠けたままきてしまったようだ。

というようなことを、子供が産まれたことをダイアリーに書こうかと思ったときに思い出したり考えたりした。胎盤がズルズル出てくる感じでズルズルと。