裏飯

アウトプット練習

仮想の返信

id:yasukiyodesu様へ

お元気で何より……ですが、猛暑厳しき折、年齢のこともありますし、できれば回数は減らし、あまりお励みになりすぎないよう、くれぐれもご自愛のほどお願い申し上げます。
ありがとう。わたしは元気です。

さて、コロナ禍の中、眼前に迫ったオリンピック、いろんな人たちの怒涛の懐妊劇であったり、人の業が荒れ狂う、まさにこの世は阿鼻叫喚の地獄絵図といった風情ですが、こんなときに我々が二度目の青春時代を過ごしたはてなが20周年となり、「はてなインターネット文学賞」なるイベントが催されるということで、かつて文投げ部(通称:餅の焼き方を考える会)として共に活動したid:yasushiyokoyama であれば、わたしに決起のための書簡をくれるだろうと予感し、まだそれは届いていないけれども、何事もタイミングが大事なインターネットでありますし、こうして、数年ぶりにはてなブログの編集画面を開いた次第です。

先日のことですが、はてなインターネット文学賞「作品発掘部門」のページを見た後、懐かしくなって、私のはてなグループ日記はてなブックマークを見てみました。タイトルが全て「はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました - はてなの告知」となり、数字と今や意味を失ったコメントやタグだけが並ぶそれらは、まさに墓地のようでした。時代は過ぎ去ったのです。

しかし、胸の奥底に熱のようなものが還ってきたのも事実でした。わたしはエクスポートしたまま放っていたグループ日記のデータを開いてみたり、インターネットアーカイブを初めて見てみたりしました(はたして私の日記はありました! 我々が最も熱かった2008年の淀んだ空気の缶詰!少し読んですぐに閉じました。生物的な生存本能!ただただ酸っぱい感じ!しかし、id:yasuokorudesikasi の創作物は当人の創作への取り組み方が「曇りなき眼にて下ネタを描く」ように1ジャンルとして下ネタを選んでいるような、サイコパス的なものを感じていた。オリンピックにかかわっていなくて本当に良かったと思う)

わたしの当時のアウトプットは、わたしの最初の青春時代に仕舞われていたものたちを、当時のインターネットで見たものを刺激として、ごちゃ混ぜにして吐き出していたように感じます。すべてを吐き出して、満足して、アウトプットがなくなっていくのも自然な流れだったと思います。今では3行のテキストを打つのも億劫な状況です。

ですが、あのころをインプットとして、この消え入りそうな小さな火を使って、節目に何か書きたいなという気持ちが湧いています。まだ湧いているだけですが。何か書ければ、それと一緒にむかしの話を再アップロードするのもいいですね。
それでは、先走った返信となりましたが、まずはIDコールでもお待ちしております。

盟友 id:sasuke8より。


敬具

ガイドレール

規則正しく生きようと思っていたのにまったく規則正しくなく生きている。レールがないと生きていけないんだ! レールをくれ! すべすべで、やわらかくて、たのしいやつを。

無限の時間を欲しているが、おそらく無限の時間があっても意味がないだろう。時間の量だけではだめだ。何かが足りないのだが、よくわからない。結局、気分なのか。難しいことがわからない。何がわからないのかも上手く表現できない。

現実を離れて物語に没入したい時と、半分現実に残したままでいたい時があって、前者は小説やらドラマやらアニメを見るけれど、後者はバラエティをみたりゲームしたりする。今は後者の時間が多い気がする。相変わらずアウトプットしない毎日だ。

マジレスかっこいい社会へ

id:sasuke8江。続きなんてないよ!!!もう、オチはついてるんだよ!!!文投げ部員として、あえて聞きたいが…前述の意図は伝わってないのか…?

http://yarukimedesu.hatenablog.com/entry/2015/01/17/232100

id:yarukimedesuよ、申し訳ない。
正直に書くと、あんまり伝わってなかったよ。読み込めてなかったんだ。

実験についてコメントすると、「ありきたり」な表の話をいかに読者に浸透させるか、とそれを裏返す威力のある、そして話を裏返すと面白みのある異常性を持ってこれているか、ということになると思う。僕も自分が書くとき、こういう発想で書くことが多かった。テンプレ話にスパイス的な異常性というのがセオリーだった。誰かにもらった「つっこみ待ち」という言葉がしっくりくる。ただ、これはけっこう読者の知識や経験とか、読むときの態度とかによって変わるので、なかなかうまい下手良い悪いはいいづらいかと思う。結局は、自分のセンスで選んで、自分のセンスに近い人が共感してくれればいいや、くらいで放流していた。

以下、僕個人の感想。最初読んだとき、ただなんとなく、ディストピア的な、幸福に見せかけた不穏な何かなんかなと思っていた。実験的な意図より、なんかもっとドロドロした何かかなとか勘ぐっちゃった。「美しい国」とか読むと、安倍さんが思い浮かんでポリティカルな批判の印象が浮かんでしまった気もする。ただ「趣味:ヘイトスピーチ」の後に、「お互いの趣味の相性が良かった」というような文章がある時点で、僕の読む態度が悪かった気がする。何故か、「趣味:ヘイトスピーチ」単品で楽しんで終わってしまったんだな…。
「ありきたりな話」として、2chテンプレートはどうだったんだろう。個人的にあんまり馴染みがないせいか、すっとはいってこずに身構えた気もするが、よくわからない。
異常性として「ヘイトスピーチ」は面白かった。解説を読んで、読み返すと、表の文章もうまく説明しようとしてたんだな…。うまいこと書いてある…。面白い。

あと、再読したときの、ピントのずれた感想を書いておくと、この話を裏返したとしても、個人の幸せとしては、何ら間違ってないような気もしてくる。その幸せは、誰もが祝福するものではないとしても、鬱まっしぐらだったオレが人生を幸せと感じるくらいに幸せに生きている。個々人の主義主張悪行に関わらず、一人の人間を幸せにできる能力のある彼女はすごい。たった一人の人間を幸せにするのも難しいし素晴らしいことだという、見方によっては卑屈な考えを前提にすると、だが。そうなると、裏返りがぼやけてしまうかもしれない。
あと人間の二面性というか多面性についても、考えざるを得ない。人は善人と悪人に分かれないと思いつつも、身近の好きな人は善のみであってほしいと思うし、そう思っていると身近の好きな人の悪を知って愕然としたりしても、その人を悪人を切り捨てられない。ヘイトスピーチくらい振り切ってるのはまた違う次元として考えることもできるかもしれないが、そのあたりをうまく切り分けられない僕は、ヘイトスピーチは許容できなくても、ヘイトスピーチが趣味な彼女を、それ以外の部分で許容してしまう彼を想像して、リアルだと思ってしまうような気もする。この場合も、愛が人を救う表の話を毀損しない。
まあ、これらは、あとからいろいろ思いついただけで、読んですぐ思ったわけじゃないので、おまけ程度に。



あと、そういう意図的なものじゃない部分で、設定や文章のノリがとても楽しかった。多分、それが本道じゃないんだろうなと思いつつ、なのであえて、その続きを書いてみたら、新しい面白いものができてくるんじゃないかという思いでブクマコメントをしていた。本人も書きたいとは思わないだろうし、書いて面白くなるかわからない、ということで読者としても無理強いはしたくないので、書き手・読み手の意思を超越した存在として釈迦視点としていたが、伝わっただろうか。


あと(最後)、あの「はしごたん」さんから言及されていて驚いた。立派なはてなーになったんだな…。あの一連のもめごとは、眺めているだけだったが、幸せの表明が、呪いに鳴り得るということを初めて教えてくれた。
日々は続いていく。時代は変わっていく…。

打頭

朝、ちょっと外に出ようと玄関を出たところで、雪解け水で足を滑らせて、頭と尻を打った。
がっつり後頭部を打ったような気がして、ネットで調べて震えていたが、今もふつうに生きている。頭頂にたんこぶができただけだった。良かった。

滑稽な話だが、こんなことで死を意識する。ふだん、まったく意識してないのがよくわかった。まだ死にたくないということも。

ホープ

今年の目標は「発狂しない程度に現実を認めていく」です。

石原さとみのCMを見て、「もしも、石原さとみが奥さんだったら」という妄想をしてみる。アロマリッチの華やかな姿をテレビに映した、この服が脱ぎ散らかされて雑然とした居間に入ってくる石原さとみは、テレビでは見られない野暮ったいユニクロの部屋着を着ていて、当たり前だがすっぴんなのだが、それはまごうことなき石原さとみであり、その非現実感にまったくもって妄想の強度が足りないことに気付く。ここが限界だ。僕はもうここで死んでいく。それでよいのだ。

久々に小説(文庫)を買ったのだが、その中に海月姫の映画の宣伝チラシが入っていた。コスプレのような登場人物は能年さん以外誰がやってるのか全然わからなかったのでキャストの名前を見ると太田莉奈さん以外知ってる人ばかり。おお、池脇千鶴も出ておる。どこに?と思ったら、和物オタクとして着物着て、ミシンに布を通しているぽっちゃりにその面影があり、焦った。その丸いアゴをどうしたんだ! 役に入り込むってこういうことか!と思ったが、そんなことはなかった。良かった。(アジアン馬場園さんだった)

寒い。こたつはあったかい。お風呂に入らないといけない。

妄想ロビンソンクルーソー

今年も慌ただしく日々が過ぎて行くが、時間を切り取ってみれば、結構のんびりしている。今日のこれからの予定はスマフォをいじって寝るだけだ。まさか、ここまでスタミナに振り回されてゲームすることになろうとは思わなかった。今、サガの新作があったとしても、アイフォンでできなければやることはできないだろう。

子供が生まれて多大なる周囲の人々の協力により何とかかんとかやっていっているが、人生がじわじわと進んでいくことに不安を感じないわけないはいかない。やるべきことをやれるのか。そのとき生活はどうなっているのか。こんな個人的なことにもあっぷあっぷしているのに他人や会社や国をどうにかできるというのか。ちゃんとした社会人凄すぎる…。
明日ワンピースの七十六巻を読んでラーメンを食べる予定だけがあるが、そんなことでいいのだろうか。しかも、そんなことでいいのだろうかと言ってみただけで、予定を変える気は毛頭ないのだ……。こうやって、自省した振りをして、流されていく。

ロビンソンクルーソーが無人島に流れ着いて、一緒に流されてきた座礁した船から必要な物資を運び込み、洞窟にテントを作り、柵を作って獣に備え、麦をまいてパンを作り、島を探検して野生のヤギを見つけて捉えて牧場を作るという諸々を、洞窟でぼろ布にくるまって死ぬまでやらねばならないと想像しつづけているような状況。

いや、そこまでひどくはないはずだ。そろそろ切り分けていかねばならないとは思っている。自分にできることと、すべきこと。もう夢を見る年ではないのだ。夢を実現する年だ…。

絶対幸福時間の黒染み

程度の差はあれ、明日に嫌なことがあることが多い青春を送ってきたので、時間を切り取って近視的に眺めることで、ストレスを排した絶対幸福時間を作るという技を使って、過ごしてきた。今からゲームをする5分間はとりあえず100%幸せ、という感じ。明日待ち受けるストレスが大きい場合はもう寝たくないと思っていた。切り取る時間が多くなり、ストレスレスに自分を癒し、嫌なことを先延ばしにできるからだ。

そういうのを無意識に行うようになっていたのだが、最近それが機能しなくなってきている。家に帰ってきてストレスの元をシャットダウンしようとするのだが、なんだかぼんやりと暗い影が頭の隅にあって、完全に消すことができない。モザイクがある方がエロい気がするの原理により、正体不明の影が、何だか嫌な感じをかもしだしていて、常にそれを意識せざるを得ない。

結局は、眼鏡でもコンタクトでもレーシックでも、ストレスの元を見定めて、対策を行う(あるいは行うつもりとなる)ことで、ストレス自体を小さくしていくという正当な手続きを行うしかないのかな。何だか、よく見えるようにピントを合わせてしまうと、まだまだ見えてなかったものが見えてしまいそうで恐ろしい。