裏飯

アウトプット練習

スピーチカ

「スピカ?」
「それはおとめ座で最も明るい恒星。スピーチカだってば」
「ビーチク?」
「それは反転型の隠語で、おっぱいの先端にある……ってわざとやってるよね」
少女は周囲を見回して、頬を少し赤らめる。
「えへへ。で、何、スピーチカって。突然わけわかんないこと言うから混乱しちゃったんだよ」
「スピーチカ。簡単に言うと、人の心をつかむ演説ができる能力、またはその能力を持つ人のこと」
少年は頬を少し赤らめて、興奮気味に言う。
エイブラハム・リンカーンアドルフ・ヒトラーマーティン・ルーサー・キング・ジュニアジョン・F・ケネディ……」
「へー……私でも知ってるようなスゴイ人ばっかり」
「そうだね。でも、スピーチカは歴史上の人物ばかりじゃないよ。ミコトの知ってる人も持ってるんだよ」
「そうなの? 誰よ」
「それはね……すぐにわかるよ」
「ちょっと、気になるじゃないよー!」
少女は微笑んで、前を向いた。
「ほら、始まるよ……」
頬を膨らませ、抗議を示していた少女も前を向いた。今日は彼女たちにとって大事な日だ。ステージに光が灯り、それにしたがって気持ちが透き通っていく。



道重さゆみの「スピーチ力」に賞賛の声 専門家「キング牧師も使った手法。直すところがない」 | キャリコネニュース


力とカって本当に紛らわしいという話。けど、もう僕はスピーチカと読むことにする。「道重さゆみのスピーチカ」。深夜番組とかにありそう。
個人的なムーヴメントとしては、スピーチカ(言理の妖精)とか読ませたいところ。

キング・クリムゾンの給電

書こうと思った時には既に脳内ブログの更新が終わっているために、満足感の残滓だけがあり、あとは徒労感や別の要求に対する焦燥によって活動が終わる。気が付けば二週間以上が経っている。いつもの感じです。

友人の作る本に書く小説がほとんど書きかけで止まっていて、先が出てこない。昔書いてた頃はどうやって書いてたんだろうか…。こう、もっと何か根本的に違った気がするのだ。何だったんだろうなあ。やばいなあ。

あと最近、オナラが酷く臭いのだが、職場でもバンバンすかしていくため、へコキ野郎というレッテルを張られてしまっているだろうな……。みんな表面上は優しい顔をしているけど、僕のことを放屁仙人とか何とか言って蔑んでいるのに違いない。飲み会とかあったら、職場のオナラ先輩の話で盛り上がっているのに違いない。もう、どうにでもしてくれ! 

スマートフォンにしてから極端にPCを開くことが少なくなって、キーボードとかなんか押したつもりで押されてなかったり、バッテリーがほぼ0だったり、不都合が増えてきたのだけど、新しいのを買うつもりが全くわいてこない。

ネロの兄

誰かの幸せが、誰かの不幸になるという表裏一体感は絶望に至る道。それか他人の不幸を積極的に喜べるメンタルであれば2度美味しくて嬉しい感じ?それはそれで地獄絵図だけども。
勝者と敗者みたいな直接的なやつではなくて、結婚した!子供産まれた!幸せ!→結婚できなくて子供できない人に謝れ!みたいなやつのはなしです。今もあるんだろうか。むかーしにそういうもめ事を、読んだなあ。

幸せを発信することを無条件に善とみなすのとに対する疑義、周囲に雰囲気を強制する傲慢さ、それらに気付かず、それらによって辛い気持ちになる人への想像力のなさへの批判、そういう人間への苛立ちはインターネットでは容易に受肉する。
他人だからかな。関係性の薄さが攻撃性を高める。リアルのソーシャルがブリンギンされてる今のインターネットなら抑止効果もありそうだけど、逆にグループになって歯止めが効かなくなってる感じもありそう。

絶対的な善も悪も難しすぎて、毎日をやっとこさ生きていく現状では、どこかで線引きをしていくしかないわけで、それは見えてる現実と、思考する能力やコストとの相談になってくるんじゃないだろうか。その線の引き方の違いを絶対的な悪とはやはり言えないわけで、言い始めたら最後、理論的には無限遠点まで、線を引いていくことになり、普通無理なので、あっちこっちに線を引くことになる。
ブロガーの持つ病であり罪の一つだ。バックの取り合いで、後ろ向きに地平の彼方に消えていく。そして誰もいなくなる。

なので炎上に対する最大の防御は何も書かないことだと思います。護身の完成形。

なんてことを、適用範囲も定めずにいちいちいろんなことに適用しようとしたり、全く適用しなかったりしている自分は、結局大事なことの線引きがが決められない未熟者なんだなあと思う。どこかで欠けたままきてしまったようだ。

というようなことを、子供が産まれたことをダイアリーに書こうかと思ったときに思い出したり考えたりした。胎盤がズルズル出てくる感じでズルズルと。

地に足

今日子供と公園に行って、スプリングでビヨンビヨンする奴に乗ってビヨンビヨンしてたら、何だか幸せだった。地面から足を浮かせて、体がスプリングの弾性に揺すられて、普段感じてる重力とか体重から解放されたんだろうか。
特に何かを期待してたわけじゃなかったから、余計に嬉しかった。まだ全然生きてける。

秋詐欺

ここ数日寒い。そろそろコタツを出さねば耐えがたくなってきている。しかし、季節に分けるなら10月は秋。ここでコタツを出すのは何か間違っている気がする。9月は夏の余熱が残り、10月は冬に熱を奪われているとしたら、過ごしやすい秋なんてほとんどない。詐欺だ。秋詐欺だ。

セブンイレブンで買った冷凍のつけ麺がなかなかおいしかった。太い麺が嬉しい。高いカップラーメンより満足できて、具が入ってて袋ラーメンより豪華な感じ。一緒に買った担担麺も食べるのが楽しみだ。

惑星直列級

石田ゆり子永作博美という、脂が枯れきった可愛さの二人がでていて、「最後から二番目の恋」の岡田恵和が脚本を書いているNHKドラマなのに、あんまり見る気がしないのは精神入れ替わりのドラマだからだ! なんかハラハラとかしたりしたくないんだと思う。入れ替わるって、大変なことばっかり起こりそうじゃない。
常に安心していたい。物語にさえ、そんな風に思ってしまうのは、どこかちょっとだけ歪なところがあるんだろう。


でも今日そのドラマ見ながら、これ書いてる。なんかコミカルな感じもあって安心できるな。あと、子供役の子がかわいいので、永作博美は好きになるだろうし、石田ゆり子はそりゃせつないわ。子供ができてから、子供でてくるとほんとかわいいと思うようになった。ほっこり。でも、この二人が感情を振り乱して喧嘩したり、じゃれあったりとか、すんごい楽しい! 来週も見ようかな…。
僕はほんと簡単だな……。

コストパフォーマンス

ここ最近、自分ひとりの時間をうまく使えない件について。
小さなころから欲しくてたまらなかった時間。5分、10分を作り出してFF5をやっていたあの頃から比べると、余裕はあるはず。なのに。コストに対する利益を得られない感じがして、何もやる気が出ない。やる気が出ないので何もやらないことでさらにストレスを生む。むしろ、洗濯ものを畳むとか、風呂を洗う、とかの行為の方が確実に必要なことをやっていることで充実感があったりする。

何が問題なんだろう。小さいころから好きなものは今も好きだ。ゲーム、漫画、小説、アニメ、ドラマ……。それでも、それに時間を費やすことに抵抗を覚えてしまうのは何故なんだ。ただ、電車の中とか、家じゃない場所だと、消去法的にやることが少なくなり、暇つぶし的なスタンスでいる時は積極的にやりたいと思うし楽しめる。じゃあ、一番リラックスできる自分の家で、自分ひとりの時間を得たときに、どうして何かをやろうという気持ちにならないのか? 好きな気持ちが少なくなったのか。それとも、自分の時間の価値が上がったのか? それともそれまでずっと、暇つぶし的なスタンスだったのか。
まだわからない。エロ動画を探す時間以外に集中する時間が欲しい。