裏飯

アウトプット練習

神様のいうとおり

物語を享受するとき、僕は傍観者であって、登場人物たちが動き回ったり、動かされたりする様を見るしかないのだけど、登場人物たちも実は作者によって動かされるしかないのだなあ。というようなことを、エヴァンゲリオン新劇場版Qを見に行って思った。
シンジ君以外の、誰もかれもが、何かしらの意図をもって行動しているようだけれど、僕らにその意図がさっぱりわからないし、何だかわからないうちに、うまくいったり、うまくいかなかったりしている。ミサトさんやアスカやカヲルくんやゲンドウさん達は、うまくいったり、うまくいかなかったりしながら、これはあれだ! あれじゃない! そっちか!みたいなことを言っているのだけど、何と言うか、そう言うしかないんだな。作者の人の作りたいシーン、作りたいシナリオがあって、ただそれの通りに進んでいるだけと強く感じてしまう。いや、まあそれは普通のことなんだけど、そう感じちゃうと、ミサトさんの覚悟も、カヲルくんの失敗も、ピンク色の人の余裕も、なんだか軽く感じてしまう。例え、粗筋が決まっていたとしても、その中で人間らしい気持ちや、強さ、弱さ、美しさがあるのなら、それはそれだけで良いものだと思うけれど、スケール的にその辺が軽くなってしまうからなのかなあ。