裏飯

アウトプット練習

エクスカリバー

全ての人間が等しく持っている権利。人間らしく生きる権利。
というようなものを考えたとき、それは守られるべきだようんうんと考えているけれど、知らず知らず、邪悪な人や、邪悪ではなくても愚かさによって人に迷惑をかけるような人を省いて考えていたと思う。もしかしたら、ぼんやりと、邪悪さや愚かさから遠くある事、正しく賢い人間になろうと思うことは、自分自身がそういう権利をはく奪されないようにしているのかも。
でも、たぶん、邪悪な人も、愚かさを気づかずに人を傷つけていても、その権利は守られるべきなのだ。
ということを最近思った。多分、このあたりのエントリが発端になっている。

http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20130722/1374513940
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/07/22/023413

そう思うと、人権というのは、お手軽簡単な善の力として振りかざすものではなく、むしろ人が触れないものであるべきなんだなあ。昔の人は、すごいことを考えるなあ。


長らく、上で挙げたような邪悪さ、ある種の愚かさについては、罰を受けて当然と考えていた。それは笑いに転化して、揶揄されても文句の言えず、笑う方も罪の意識なしに笑える、安全領域にあると考えていた。しかし、近年はやっと、それらが人の生まれ持った性質によるのなら、それは認めなくてはならないという立場になった。人の持つ弱さや愚かさや邪悪さも、許容しなければ人と生きていくことはできない。では、笑っても良い悪とは存在しないではないか? そうなのか?

そういう気付きや問い自体が、おそらく最初の権利の前提を間違えていたことによるものなのだろうな。


世界は危険に満ちていて、人は弱く邪悪で愚かだ。そういう世界で生きていくことを真剣に考えて、人が概念を操って、世界を変えていく。すごいぜ人類。