裏飯

アウトプット練習

スナフキンの手紙

スナフキンの手紙」という鴻上尚史の戯曲があって、僕は演劇実験場下鴨劇場という学生劇団の公演でみた。そこに「語られない言葉」というキーワードが出てくる。


「どうかこのノートを持って、シルクロードの果てに旅立ってください。そして、そこでまた、誰かにこのノートを渡してください」

[ スナフキンの手紙 http://www.thirdstage.com/dsbt/snaf.html]

僕は、この演劇の文脈でそれが出てきたときに、これは「ブログ」のことだと覆った。
自分の中にあって誰にも届けられなかった言葉が、ブログという形で、自分の外に現れる。ブログという形だからこそ、現れることができた言葉。全てのブログがそうだと思わないけれど、多くのブログは「語られない言葉」を綴る為にあるのだと思う。

これは僕が解釈したことなので、元の意味とはきっと違うのだろうけど、「語られない言葉」とは、何らかの理由によって「言葉を受け取る相手」がいなかった言葉だと考える。
そうなる理由としてはいろいろあると思う。言葉を伝える相手が永遠にいなくなってしまったり、言葉を伝えることが言葉で伝えたいものを損なってしまうものであったり。


この視点で重要なのは次のことだ。
「語られない言葉」は、誰にも向けられていない言葉。したがって、ブログに綴られた「語られない言葉」は、それを目にするブログの読者にも向けられていない。それが、誰かに呼びかけていても、特定の誰かを賛美/攻撃しているとしても、それが「語られない言葉」であるならば、それはどこにも届かない言葉なのだ。

誰にも届かない言葉が、誰かの目に触れることに意味があるのか、と思う人もいるかもしれないが、意味はないのだ。「語られない言葉」が、人の中でなく、外に現れただけだ。それは誰の為でもない。人間の活動の中で現れる自然現象とでも考えればいい。
それに意味があるとすれば、それは、その言葉を読んだ人間が、それに意味を生み出すときにしかない。

しかし、「語られない言葉」が自分にも誰にも、もしかすると書いた本人にさえも意味のないことだと意識すれば、それはインターネットの痛みを少しだけ和らげるだろうと思う。


……この観点は、届けようとする言葉を否定する。インターネットが、届けるための場ではなく、届かない言葉を置いておく場所だという、後ろ向きの冷めた考えだ。しかし、悲しみを防ぐための、一つの答えのような気がする。