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ハンディキャップを自分のハンディキャップと比較して考える愚かさ。禁煙155日目。 - 超外伝キルヤスデメ劇団

似たようなことを考えていた。

頑張れない人に頑張りを強要することによる具体的な被害として、うつ病とかを例に出して、説明したらいいんじゃないだろうか。
ただし、理解して、例外を認めたとしても、結局頑張った結果、何かしらの価値あるものを得た人にとって、頑張ることで報われる(こともある)という価値観を覆すことはできないだろう。それは魅力的で効果のあるメソッドだと信じているし経験しているから。そして、誰か力になりたいと思った人に対して、「頑張れ」とアドバイスしたい欲は湧き続けるだろうと思う。
僕自身は、実際、怠けているだけの場合もきっとあるのだから有効に働くことがあると思っている。ただ、その線引きは、他人にはできないし、厄介なことに本人にもできないのじゃないかと、思っている。僕は、何も言われなければ、際限なく怠けてしまうだろうし、何かかくあるべしというような指標がなければ、何もしない自信がある。だから、できる範囲で頑張れと言われれば、頑張るつもりではあるし、もし頑張れたら頑張れたという感覚は少しだけ僕を救うだろう。自分で頑張ろうと思った場合も同じように僕を救うだろう。そういう気分になれるような気がする。でも、ギリギリまで頑張っている(これ以上頑張れない、あるいは頑張っても無駄であるとわかっている)ときに、頑張れと言われたくないし、だから人にも言わないでおこうお思う。頑張りのレベルは人それぞれ違うからだ。ただ、このスタンスも、書いてみると、ギリギリまで頑張ることが前提みたいになっていて、頑張る教のヘタレ版みたいな中途半端さを感じないでもない。


人は頑張らないでいいのか。
そんなことを考えられる時代にやってきたということなのかな。そんなことを考えられる人が増えてきたということなのか。それは良いことなんだろう。
生きるために、あるいは生かすために否応なく頑張らなくてはいけない人は、きっといつの時代にもいて、それがたくさんいたから、頑張る教は、必要だったのじゃないかと思う。みんな頑張ってるから、頑張ろう。頑張っている人が、頑張らなくていい人のことを考えて、不公平に思ったり、悲しく思ったりしないように。その裏で、頑張れない人は死んでいったのかもしれないけど。
それぞれが生きる為に頑張ったり頑張らなかったりするしかないのか。自分にそれが必要か不必要か見極めることが重要な気がする。